恐れ、または『天気の子』

最近、他人の言葉に押し流されないように必死だ。

感想を言語化するという行為は、他者の言葉に押し流される恐れとの戦いだ。 たまたま見た他者の言葉を自分の感情として発信してしまうのが怖い。そのことに気づかないのはもっと怖い。

他者の言葉を自己の感情だと勘違いしてしまうぐらいならば、いっそのこと口を噤んでいたほうがマシだという気持ちすらある。 あるいは「良かった」と言う一言にすべてを凝縮したつもりになって満足し、意味のないこの4文字をTwitterに流して忘れ去るのもそういった恐れに対する防衛機制の一種なのかもしれない。

いつまでもそれを繰り返したくはない。マルコフ連鎖と同等の知性には落ちたくない。 この恐れこそが、他者の言葉に押し流されまいとさせるのだろう。


『天気の子』は、そんな恐怖が大きい作品だった。 公開直後、多くの人が Twitter で「ゼロ年代セカイ系を彷彿させる」「これこそ新海誠だ」との感想をたびたび見た。 己もこれら言葉に染まってしまうのではないか、そういう恐れである。

恐れは、言語化によって対峙できる。 今回の場合は、"自分が「セカイ系」や「新海誠」に特別な思い入れがなく、むしろそれらをよく知らない" という自覚によるものだと整理できた。 Wikipediaニコニコ大百科の「セカイ系」のページを見ると、その定義や作品例がずらりと並んでいる。 その中には自分がよく知っているものもいくつかある。 しかし、そのいくつかの作品を同一のジャンルとして捉えたことはなく、「セカイ系」の概念は己の中で内面化されていない。

こんな自分が、うっかり「『天気の子』、完全にゼロ年代のエロゲのトゥルーエンドルートだった」なんて口走ってみようものなら、それは完全に自己を捨て、他者の言葉で飾ってみせようとする姿そのものだ。 それは避けたい。死んでも嫌だ。そうは言いつつも、第二の恐れが顔をのぞかせる。


それは、「知らないことを認める」ことを極端に怖がる気持ちだ。 知らないことについて、知らないことを認めるぐらいならば、その場でインターネットでパッと調べて、あるいは調べなくても少しばかり分かっているふりをする。 そんな欺瞞を繰り返してきた。

この「知らないことを認めたくない」第二の恐れは、第一の恐れとの天秤の関係にある。 『天気の子』の例で言えば、とりあえず知ったかぶって「完全にエロゲーのトゥルーエンドだった、新海誠やってくれたな……」と言うことだってできる。 そうすることによって、「知らないことを認める」恐怖からは逃れることができる。

それではいけない。 知らないことは知らないと認めなくてはならない。


だから、今日は他者の言葉を借りるのではなく、己が素直に感じたことを書いてみようと思う。

『天気の子』を見た時もっとも感じたのは、「東京へのコンプレックス」だ。


横浜生まれ・横浜育ち、実家は横浜の中心部まで10分もかからない、という環境で育った自分は、横浜に誇りを持っている。 心の底から最高の都市だと思っている。「横浜なんて実はだいたい山だよ」なんて、言わせたいやつには言わせとけばいい。 選民思想と揶揄されようとも、自己紹介するときに「横浜の人って絶対神奈川出身って言わないよね」と言われようとも、この気持ちは本物だ。

『天気の子』は、東京を舞台とした作品だ。新海誠の手によって東京の中心部は極めて詳細に描かれる。 ドコモタワーを頂上とした新宿、丁寧に描かれた田端駅。 10代の彼らが見る東京を、見事に描き出している。

いや、本当にそうだろうか? 俺は「分からない」。この映画の中で描き出されている東京が、現実のそれとどれほど同期しているのか。判断がつかない。 なぜか? それは俺が中高の時代を東京ではなく、横浜で過ごしたからだ。 東京…… いや、"東京" とはなんだろうか? 距離にすれば25kmもない場所でで10代を過ごしておきながら、やはりそれでも東京のことは分からない。 渋谷や新宿に通う中高時代だったら違ったかもしれない。俺はそうではなかった。一番詳しいのは横浜西口五番街のことだ。

横浜は大好きだ。横浜は大好きだが、東京も大好きだ。首都高、東京タワー、丸の内。すべてが調和することなく、それぞれの美しさを誇っている。 数え切れないほど夜通し首都高でドライブしているし、夜闇にまばゆく光る東京タワーに何度も見とれている。 それでも、東京のことを知っているという自信はまったくない。

東京でバイトをはじめてもう5年になる。秋葉原、渋谷、恵比寿で働いた。新宿だって多少は分かる。いや、それさえも強がりだろうか? 大ガードが何度も描き出されるのを見て、親近感を覚えたつもりになったかもしれない。 しかし、物語の重要な舞台である代々木や池袋、田端については、本当に何も分からない。多分下りたこともない。池袋にラブホ街なんてあったんだ。

東京で『天気の子』を見た多くの人も、そうなのかもしれない。 だが…… だが、俺は知りたい。東京について、もっと知りたい。 『天気の子』を、見たことがあるかもしれない風景の集合ではなく、身近なところで起きた物語として見たい。 帆高が東京を駆け抜ける時。夏美のバイクで逃走劇を繰り広げる時。 「東京のことを、俺は結局何も知らない」という気持ちが刺激された映画であった。

来年からはいよいよ東京に引っ越す予定だ。 仮に1年後の俺が『天気の子』を見たとしたら、何を感じるだろうか? まだ東京のことなんて何も分かっていないだろうか? あるいは、まるで地元の出来事のように感じるだろうか? それはまだ、分からない。

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*1:この記事は 9% のチューハイを2本飲みながら、茨城県つくば市で書かれました